化学者で、禅も究めた近重眞澄さんの「茶味百話」という名のエッセイに、禅とは何かを紹介する回がありました。既に著作権が失われていますから、こちらで全文紹介いたします。
九十九 虎が兎を搏つ様に
お茶は禅だと云へば茶人は喜ぶ。併し禅とは何かと問ふと答へられない。中にはなに禅とは寂だよといふ人もある。然らば寂とは何かと問へば、それは禅だよといふ。つまり禅が何やら、否お茶が何やらさへ分らなくなる。
併しそれはお茶を離れて餘所に目が散るからの過失であって、茶人は禅とも寂とも何も云ふ必要はない。所謂説いて一物に似たらば即ち中らず、我をして如何が説かしめん1といふのがお茶の正味である。
其の正味の基くところは三味2である。餘所目をふらぬことである。宛も虎が兎を搏つにさへ全力を用ひる。猫が鼠をとるにも全力を用ふる。
茶人は一萬圓の茶盌を取扱ふ時でも、五十銭一圓の並品を取扱ふ時でも心掛が一でなければならない。安茶碗だから缺けても好いと油断のある様では三味を得てゐない。全身の注意を其の一挙手一投足に向けねばならない。之を禅だといふのだろう。
すると禅は獨り茶人に在るのみでなく、猫にも虎にもある。所謂狗子に佛性あり3である。是は古人も許してゐる。茶人の禅が猫の禅でも別段耻づることはない。唯須らく渾身の注意を事物の上に注いで點前に精進すべきである。
茶禅一味4といふことは此百話の中でも已に幾度か説いたやうに思ふが、愈々終結に近くなって私も大悟徹底5したようだ。
そこで古語にも無佛の處且らくも住ることなかれ、住著すれば草深きこと一丈6とある。
注意も三味も爲そうとしてする中はそれだけ注意が缺けてゐるのである。無我無心にして而かも自ら三味であるやうに、是には十年や二十年の修行では中々到れないであらう。
結局は長生きすることだ。
よーし、全然わかりません!!まさに、これが禅ですね
漢字を読むところから頑張りましたよ!
少し長くなりますでな、ゆっくり、番号ふったものを一々見ていきましょうな。
参考文献
茶道百話, 近重物安, 晃文社, 1942