著者

近重 眞澄(ちかしげ ますみ), 1870-1941

京都(帝国又は理科)大学 教授時代

明治3(1870)年、高知市街北奉公人町で、卓馬(八潮彦)、楠の二男に生まれました。
土佐の人ですが、長らく京都で教鞭をふるい、引退後も京都で文化人として暮らしていました。

近重 眞澄氏 年表
  • 明治29(1896)年

    東京帝国大学理科大学大学院卒業

  • 明治29(1896)年

    現在の熊本大学にあたる第五高等学校の教授に就任

  • 明治31(1898)年

    京都帝国大学の分科、理工科大学の助教授に就任

  • 明治35(1902)年

    インジゴ合成の研究により、理学博士の学位を取得

  • 明治38(1905)年

    ドイツ(ゲッティンゲン大学)への留学を開始
    イタリア・ローマで行われた万国応用化学会への参加

  • 明治39(1906)年

    フランスへの留学

  • 明治40(1907)年

    日本へ帰国し、京都帝国大学理工科大学の教授に就任

    ほんね
    ほんね

    昇進している!おめでとうございます!!

    有機化学の研究から留学以降、無機化学の研究へ移ったのですね

  • 大正3(1914)年

    京都帝国大学が分科したため、京都理科大学教授に就任

  • 大正4(1915)年

    東京理科大学学長に就任

  • 昭和5(1930)年

    定年退官

  • 昭和8年(1933)年

    北野の萬松寺本堂建立時に設けられた茶室の講義で、千宗主と知り合う

千宗主(当時)は、近重氏との出会いについて以下のように述べていました。

当時は博士の大患後悠々自適して居られた時であつた。六十四歳位にもなつてゐられた。

何分病後で身體しんたいの運び意の如くならざる風であつて、殊に茶の湯の立居は重荷で一々手を畳について立居せられたる有様であつた。が然し一・二ヶ年と云ふものは一日三度宛お稽古すると云ふ精進振りに他の十数人の御稽古人とは遙に群を抜いてゐた。

其後博士は「茶の湯のお稽古は手足を前後左右にはたらかせるから老人の運動には最も適してゐる。又胸膈きょうかくを開かせるから身體の爲めに持つて来いである。今日は吉田山から彼是二里餘り歩き通して来たが、大した疲労を覚えぬようになつて来た。此もお茶のお陰だ。」と大に悦んでゐられた事があつた。

尺に近い白髯はくぜんをしごきしごき、皮肉な笑を湛へて、談論風發だんろんふうはつする博士の小柄な體軀たいく、敬虔な態度で茶碗を両手に捧げて、薄茶を啜られる様子が、今も髣髴ほうふつとして、眼裡がんりに止まつている。

茶道百話 千宗主の序文より, 近重物安, 晃文社, 1942

  • 1日3回お稽古していた
  • 30センチもある白髯、常にしごかないと絡まったのかもしれない
  • 8キロ歩いてからお茶のお稽古をするくらいにお元気
ほんね
ほんね

早くから禅を究め、その秘奥ひおうに達していたとのこと
仙人的な人は髥伸ばしたくなるのだろうか…

はくたく
はくたく

老生とおそろいですな

その他にも、茶道百話の序文には、以下のことが書かれていました。

  • 古徳尊宿の境地を眞に悟得するために、漢詩が必要だと判断し、詩作に刻苦精励こっくせいれいせられた
  • 禅学論だけではなく、茶味五十首と題する詩集も公刊している
  • 桂冠後は詩文・禅・茶道に専念していた。
  • 5、6年の間に茶杓を千本近く削っていた
はくたく
はくたく

『「茶道百話」は博士の茶道を語る格好の遺書であらう。』by 千宗主
一つ一つは短いエッセイで、海外留学の視点もあって面白いですぞ。

参考文献
茶道百話, 近重物安, 晃文社, 1942🔗