- Q[直心之道場(じきしんこれどうじょう)] その心は…
- A
素直な気持ちがあればどんな場所も道場、修行の場である
直心之道場の物語
この言葉は、とある物語から来ています。
ある修行僧が「都会の喧騒の中では、心が乱れて修行ができない」と考え、修行に適した静寂の地を求めて、町の城門を出ようとしたところ、城門内に入ろうとする維摩居士に出会いました。
修行者が「どちらからいらっしゃいましたか」と尋ねると、「道場から来たよ」と維摩居士は答えます。
修行者は「これはよかった。是非場所を教えてもらおう」と考え、「その道場はどこにあるのですか」とさらに尋ねました。
すると維摩居士は、「素直な気持ちがあれば、どんな場所も道場、修行の場だよ」と返し、修行のあり方を示したというお話です。
この鋭すぎる舌鋒で、若干周りから遠巻きにされていたっぽいですね、維摩さん…
維摩居士 とは
インドの商業都市毘耶離(ヴァイシャーリー)城に住む大富豪の長者で、弁才無碍をもって聞こえ、在俗の身ながら仏の教えを深く理解していた人。
大乗仏教の理想的人間像である「菩薩」のモデルとして描かれることも多い。
あるとき、仏教の教えを広めようとした維摩居士は、彼自身が病気になることで病気見舞いにくるであろう多くの人々と「病気」について語り合い、それを通して彼らを仏教の教えに導こうと考えました。
人がお見舞いに来るって自信があるんだな、とか
人の優しさにつけこんだ布教活動するんだ、とか…
維摩居士の病の一報を聞いた釈迦は、釈迦が弟子たちに見舞いに行くように勧めますが、誰も行きたがりません。かつて維摩にことごとく論破された経験から、腰がひけていたためです。
唯一人、見舞いに行くことを引き受けた文殊菩薩が維摩の元を訪れ、大乗の妙理を示す問答を展開したエピソードが、維摩経の「文殊師利問疾品」に記載されています。
維摩詰は一日、衆生の病をもって病む彼を見舞う文殊との間に大乗の妙理を示す問答を展開する。
この時の病気についても、「衆生の病気」といい、人々が愚かさや執われから生じる衆生の迷い・苦しみがなくならないうちは、維摩居士自身の病気も治らないと述べました。
参考文献
大谷大学 きょうのことば – [2005年12月]
重要文化財 維摩居士像 🔗