陶芸

3⃣ 飛鳥・奈良時代の窯芸

飛鳥・奈良時代の窯芸は、須恵器を含みながらも多様に変化していきます。

飛鳥時代は645年-715年、また、奈良時代は715年-806年のことです。

つまり、この約150年間の間に窯芸は大きく発展しました。

何故ならば、飛鳥・奈良時代は仏教が伝来してから、それに伴って流入した文化がつぼみとなり花となった時代と言われています。特に、天平期は奈良文化の黄金期でした。

ほんね
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聞いたことない年号は、年号一覧から復習します!

飛鳥時代(645年-715年)の須恵器

主に須恵器が作られました。
大きな変化はないものの、古墳期の朝鮮風を完全に継承するだけではなく、わずかに変化していたのが飛鳥時代でした。

古墳期の喇叭ラッパ状に外に開く口の部分 → 飛鳥時代の焼き物からはほぼ見られない

ラッパ状の口

奈良時代(715年-806年):①土器

弥生式土器の系統をひくとされる土師器はじきの焼製も行われましたが、質が柔らかいうえに破損しやすく実用性に乏しかったため、焼製は盛んではありませんでした。

しかし、古い慣習で行われる宮廷や神社の祭事では不可欠品だったようです。

祭事で使われていた事例

天平勝宝2(755)年の正倉院文書 ”清浄所解せいじょうしょげ”より
宮廷は、借馬秋庭女に埦や片埦、片佐良などの土師器を4446個作るように命じている

奈良の平城京跡より
天平の年号を書した木簡とともに、つき高坏たかつき、盤などの土師器がおびただしく出土している

奈良時代の土師器の特徴
  •  須恵器の造形の風が濃い(須恵器から影響を受けている)
    ・皿や鉢などの底裏に高台がつく
    ・壺の場合、正倉院の薬壷のようなかぶせ蓋をともなう
    ・焼製の火熱も土器にしては高めで、よく引き締まっている

奈良時代(715年-806年):②須恵器

須恵壺 (道薬師どうやくし)
奈良県天理市岩谷町から出土。和銅7(714)年に贈られたもの。
特徴:宝珠形つまみのある / 胴に、上に反り返った木葉形の/ 底部に高台

奈良時代の須恵器は、朝鮮風からさらに離れていく変化の傾向が見られます。
器の側面の耳は、古墳期の提瓶ていぺいなどにもみられていました。しかし、その様式は先端が下向・形は勾玉状であるのが通例でしたから、上記の道薬師の耳の形式とは異なっています。

また、高台も道薬師は平紐状の粘土輪を外底に貼り付けた付高台でした。
高台に囲まれた底裏が球面状であるのは古い造形の名残りといえるものの、この造形形式も古墳期には全く見られません。

正倉院伝来の須恵器

正倉院は、聖武天皇の御遺愛品を中心にした奈良時代の美術・工芸品を北・中・南の三蔵にわけて納めて伝世したことが知られています。

ほんね
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奈良国立博物館での正倉院展はこれらを展示するものなのですね

思ったより古いのに、びっくりしました

正倉院の壺で、天平勝宝8(756)年に光明皇后が大仏の奉献せられたものは、芒硝(含水硫酸マグネシウム、シャリ塩)などを納めて使われたため薬壺やっこと言われました。

はくたく
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この正倉院の薬壺の由緒が確かであるため、これが基準となり
この形は「薬壺形」と呼ばれますぞ。

正倉院伝来の奈良時代の須恵器の薬壺やっこ
  •  芒硝、戎塩じゆうえん冶葛やかつを収めた壺
    • 宝珠形鈕みのついた被せ蓋と八の字状の裾開き形になる高台
    • 大器だが胎づくりは薄く、肩が張り、腰から高台に至る局面の膨らみが激しい
(左) 戎塩壺、 (右)芒硝壺
はくたく
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中国西北地方の塩湖や土壌から取れる塩を戎塩と言います。
冶葛も薬草として使われたましたが、用途は不明ですな。

奈良時代(715年-806年):③奈良三彩

奈良三彩とは

奈良三彩は800度前後の低熱によって酸化製され、器表を緑・かち・白などの色釉で彩ったものです。(須恵器の焼製温度は約1200度)
彩りは、緑・かち・白の三色、緑と白の二色、それぞれの色の単色で作られたものを含みます。

とは、こげ茶色、黒ずんだ茶色のこと

    • 黒鉛からえた鉛丹 → 鉛釉彩の主成分
    • 緑青(酸化銅) → 緑色の釉薬
    • 赤土(酸化鉄) → 褐または黄の釉薬
    • 白石(石英) → 白の呈色料

奈良三彩がはじめられた時期は厳密に明らかではありません。
しかし、奈良県の、神亀6(729)年の確証がある墓から出土した三彩小皿は、奈良三彩の極初期に焼製されたと考えられています。

また、年代は不明ですが大職官山だいしょっかんやまと呼ばれていた地から出土した三彩壺は、729年より前に焼製されたようです。

この手法も大陸から伝わりましたが、唐(当時の中国)からの伝来だと考えられています。
つまり、奈良三彩の源流は唐三彩にあるとされます。

奈良三彩の源流、唐三彩

唐朝で作られた、緑、、コバルト藍で彩られたやきもののことを唐三彩といいました。
唐三彩は死者の副葬品として非常に多く作られています。

素地土は緻密な質の白色、または桃紅色とうこうしょくです。また、素焼きはしていませんでした。

唐三彩の焼成は、西暦700年よりも前から始められていました。

唐三彩の発見
  •  長安3(703)年の確証あり、陝西省せんせいしょうの西安(長安)に在る墓より
    → 神将、魌、馬、駱駝などをかたどった三彩陶さんさいとう
  •  開元2(714)年の確証ある墓より
    → 武官や文官像とラクダなどの象形陶
はくたく
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つまり、唐で唐三彩が始まりその技法は以外に早く日本に伝わったことが
これらの出土品から物語られていますな。

正倉院にある三彩陶器

正倉院、二彩皿、口径14.6cm、高さ4.2cm

正倉院の南倉には、三彩陶器が57点納められています。
正倉院の三彩陶器は、素焼きをしていて素地土はやや粗質な灰白色色釉を筆で塗り分けられるような稚拙な手法の跡がありました。

ほんね
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この違いで、唐三彩の舶載はくさい品ではなくて日本で作られたものだと確実になったみたいです

ところで、筆使ったら稚拙なのですね…

内訳は、大部分が大小の皿や鉢、鼓胴こどう1、大瓶たいへい1、小塔しょうとう1です。

正倉院の三彩陶器の色分け
  •  単色 17点
    黄色:3 / 緑:12 / 白:2
  •  白と緑の二彩 35点
  •  三彩色 5点
はくたく
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大皿の一つに「戒堂院 聖僧供養盤 天平勝宝七歳(755年) 七月十九日 東大寺」と墨書きがあったそうですぞ。

ほんね
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なるほど、正倉院三彩陶はそのころに焼製されたのですね

正倉院の三彩陶の特徴
  •  ロクロを使用した後が見られ、造形の手法は須恵器に近い
  •  土質は軟質の、いわゆるはに
  • 焼製された火熱は、須恵器の1200度よりも低いと考えられるため、
    どちらかというと土器系統

正倉院の三彩陶にみられる火襷ひだすき

火襷とは、数本の松葉を不規則に重ねたような紅色の線条文様せんじょうもんようのことです。

造形して乾燥するときに付着した藁が素焼きの際に藁のアルカリ分と土の鉄分との化合によってできる窯変の一種です。これには、1000度以上の火熱が必要といわれています。

はくたく
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このことも、奈良時代の土師器が高熱を使って作られたとされる根拠の一つですな。

大職官山出土の壺、福島県群郡山市出土の浄瓶、奈良の平城宮跡・崇福寺跡・岡山県の大飛鳥祭祀遺跡から発見された三彩釉陶片などは、正倉院三彩に近似した土質と作調でした。

昭和38(1963)年出土、国宝

しかし、写真の1963年に和歌山県高野口町から発見された国宝の壺は、素地土が赭褐色しゃかっしょくで、質も極めて荒いという違いがあります。

ほんね
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同時代に、近畿以外でも一応作られていたのですね!
とはいえ、田中氏の容赦ない辛口説明によると、奈良三彩の中心地の方が
質が良い雰囲気が…

奈良三彩の焼製地

正倉院の古文書の「造仏所作物帳」によると、奈良三彩の焼製の中心は近畿地方にありました。

具体的には、正倉院三彩に使われた彩料やそれを手に入れるための用料が古文書の「造仏所作物帳ぞうぶつしょさくもつちょう」に記されているのです。

はくたく
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この古文書の記載から、奈良三彩は
・日本で焼製された・近畿地方が中心にあったこと
が確実になりました。

奈良三彩の用途

奈良三彩は、金属器の代用品として作られた可能性が高いと考えられます。
何故なら、三彩は金属よりも短時日に作ることができ、また貴重性があったためです。

根拠① 正倉院の鉢

  • 上部の口縁が内側へ抱えこんだ作りで、底が丸いため掌で支えなければ倒れるような不安定な姿
  • 盤の墨書から、聖武天皇の御生母宮子の一周忌に参集した僧に使われたと考えられる


この形の器は鉄鉢てっぱつとも言われ、”和名類聚抄わみょうるいじゅうしょう”では、「仏道を学ぶものの食器」とされました。
常時使用するため、名前にもあるように金属製のものが原則でしたが、一周忌を行うにあたって多数の僧に供養するためには、金属製では間に合わなかったと考えられます。

根拠② 1963年に和歌山県高野口町から発見された国宝の壺

  • 形は薬壺に似ているが、骨が納められていた
  • この時代の骨壺は、金属器が多いのに三彩である


火葬の風習は文武天皇4(700)年に僧の道照によってはじめられたと言われています。

その時期の土中から発見される骨蔵器は、基本的に金属製あるいは青銅製などの金属器です。
しかし金属器は貴重であり、製作に時間もかかりました。

はくたく
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これらの事実から、田中氏は、三彩が金属器の代替品であると

考察してしておりますな。

三彩は、金属器の代用として作られたわけですが、その中でも主な用途は二つありました。

  1. 貴族や僧侶などの当時の上層階級の人々が、特別の席で使う、実用器
実用器だと判断できる根拠
  •  正倉院の盤に聖僧供養に使われていたとの墨書き有り
  •  正倉院の盤に、油気がある食物を盛りつけた形跡有り

2. 当時権力のあった人の骨を納める壺

ほんね
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宮殿か社寺跡地、祭祀遺跡から発見されていますから
確かに庶民用ではなさそうかな、と何となく感じます

まとめ

飛鳥時代のやきものは、古墳期の須恵器の延長線上でした。
しかし奈良時代に入ると、須恵器、土師器、奈良三彩と多様に変化していきます。

飛鳥・奈良時代の150年の中でも、黄金期の工芸が正倉院に納められ、現代に伝わっています。

はくたく
はくたく

朝鮮や唐からの技術がいかに日本のやきものに影響を与えたかを
心に留めておきましょうぞ。

参考文献
飛鳥・奈良・平安時代の陶芸 田中作太郎, 陶芸 原色日本の美術第19巻, 小学館, 1967