元治元(1864)年に京都市中京区で生まれた竹内栖鳳氏は、19世紀末から20世紀にかけて京都画壇の中心的な存在でした。栖鳳氏は、円山派・四条派の伝統を引き継ぎつつ、様々な古典を学んだ人として知られています。
竹内 栖鳳氏氏 年表
- 明治20(1896)年
京都府画学校(京都市立芸術大学)修了。
- 明治26(1893)年
シカゴ万博に出品
- 明治33(1900)年8月-明治34(1901)年2月
パリ万博に出品。ヨーロッパを旅行し、帰国後に西洋の「西」にちなんで号を漢字だけ栖鳳と改めた。
ほんねヨーロッパにいって深く感銘を受けたこと、勝手に親近感です。
この由来から、読めない漢字を一つ覚えられました! - 明治42(1909)年
京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)開設とともに教授に就任
- 大正13(1924)年
フランスのOrdre national de la Légion d’honneur (Chevalier)を受賞
その後、ハンガリーやドイツへも出展・受賞
- 昭和6(1931)年
フランスのOrdre national de la Légion d’honneur (Officier)を受賞
- 明治12(1937)年
竹内栖鳳氏に対して特筆すべきは、独自の画風です。水墨画など東洋画の伝統を踏まえて西洋絵画の技法も取り入れています。
また、栖鳳氏は後進を育てることにも長けていました。
一門には上村松園・西山翠嶂・徳岡神泉・橋本関雪ほか、近代日本画壇を支えた画家が多くいます。
弟子・橋本関雪による竹内栖鳳氏の有名な逸話に、栖鳳氏本人が、「動物を描けばその体臭まで描ける」といったとあります。
それだけ栖鳳氏が自信があって、努力をなさって、それを周りの方も認めていらっしゃるのはすごいことですねぇ
その外にも、英文学者でありマーク・トウェインの翻訳者でもある佐々木邦氏が、豊分居雑筆に「竹内栖鳳先生」のエッセイを残しています。
参考リンク 佐々木邦先生(明治学院大学)🔗
豊分居雑筆「竹内栖鳳先生」
竹内栖鳳先生 抜粋
著作権が切れていますので、一部抜粋いたします。
黄色のアンダーラインは注釈を入れました。
赤のアンダーラインは、後程感想を入れています。
世の中に豪い人は幾らもあるだらうが、縁あつて接触しなければ、それまでの話だ。又此方の好き嫌ひにもよる。それでも学生時代から今日までに、これは豪い人だと思つたのが可なりある。(中略)
第三は日本書壇の竹内栖鳳先生であると現在テンスで書けるのが有難い。(中略)
さて、第三人目の竹内栖鳳先生である。絵を好むやうになると直ぐに、私の注意はこの元老に惹きつけられた。他の書家と問題が違つている。今日の世の中では甲の政治家と乙の政治家の間に大した勝り劣りがない。甲の軍人も文人も乙の軍人文人と似たり寄つたりだ。悪く言ふと現代はドン栗の丈較べだけれど、粒が揃つてゐるとも考へられる。教育が普及して一般の地盤が上がつてきたのである。
こう押しなべて大同小異の世の中に、栖鳳先生が唯一人群を抜いてゐる。これは素人玄人皆等しく認めるところだ。或人が栖鳳先生に本因坊秀哉を加へて、段違ひの双福と呼んだ。(中略:相撲の横綱双葉山も例に上げて褒める。)碁の方も後進の秀才が追々本因坊に迫る。しかし栖鳳先生丈けは唯一人富士山のやうに高い。後に續く名人は河合玉堂さんだらうが、矢張り年齢丈けの間隔がある。
書に楷書と行書と草書があるやうに、人生にも三體の表現がある。私達は初めに學校で人生の楷書を學ぶ。社會へ出て人生の行書を習ふ。五十六十になつて漸く人生の草書が分かつて来る。人生そのままを草書で書けるのは達人だ。絵にもこれがある。栖鳳先生は森羅万象をそのまま草書で書ける書人だ。人生を草書から始めるものに野狐禅といふのがある。それは本當の悟りでない。絵書を草書から始めるものに文人書といふのがある。それは本當の芸術でない。栖鳳先生の絵をみてゐて、
「矢つ張りこれは筆先丈けで描いた絵ぢやありませんな。」
と伊藤深水氏が歎声を発したのを私は思ひ出す。木の葉蝶が二枚人生の草體で無造作に描いてあるのだつた。
達人の精進は當然教訓的効果を持つ。私は栖鳳先生の絵に接する度に、自分も専門をもつと勉強しなければ駄目だと激励を受ける。時に又先生の書題から文學を學ぶ。行列の提燈が一個捨ててある圖に、「聖寿萬歳」としてあつた。ピンと来てゐるではないか?芥子坊主に蜂を留まらせて、「頂門の一針」といふのもあつた。薪を割つて積んだところへ鶯が一羽来てチヨコンを留まつている圖を見た時、これは先生は俳句をやる人だなと思つたら、果たしてさうだつた。
私は長年の間、絵を通して栖鳳先生を想像してゐたが、某年某日、偶然お目にかかつて先生に敬意を拂う機会を得た。(中略)晩に伺つて、客間へ通された時、思ひ出したのは大ジヨンソン博士に會ふ文學青年ボズウエルの姿だつた。私はボズウエル、先生はジヨンソン博士だ。ジヨンソンは英国文壇の最高峰、ボズウエルはその著述を愛読して只管に憧れてゐた。
(中略:実際の第一印象を受けた経験は佐々木氏本人の心に留めて置きたかったようで、二人に例えて、初めての出会いが嬉しさを記述している。)
栖鳳先生は痩軀鶴の如き老人だつた。藝術の精進で枯れ切つて、透き通つてるでせうと一緒に行つた某氏が後から評した。私は昔の應擧呉春にお目にかかるやうな心持がして、何とも名状し難い嬉しさを感じた。先生は種々と話して下さつた。書室を見せて下さつた。その日の仕事が絵が殆んど出来かけてゐた。そこで又種々と伺つた。絵の一年生が日本一の大先生に物を訊くのだから有り難い。先生は矢張り下絵を入れてお描きになりますかといふ質問に對して、
「下絵は成るべく簡単にします。下絵に骨を折ると絹の上で二番煎じをやることになります。ここでは真剣勝負をしなければなりません。」
と書面を指しながら答へられた。先生の絵が生きてゐる所以だと思つた。ここに矢張り人生の草書がある。應擧は六十三、呉春は七十で果ててゐる。栖鳳先生は今年七十七だ。十四の時から絵を始めたさうだから、圓山四条の始祖よりも餘計に精進してゐる。同じ藝術に五十三年没頭してゐるものが今日何人あるだらうか?桁が違ふ次第だ。
豊分居雑筆 竹内栖鳳先生より, 佐々木邦, 春陽堂, 1941
注釈
- 本因坊秀哉, 1874-1940
本因坊秀栄に入門。明治41(1908)年本因坊21世を継ぎ、大正3(1914)年には世襲制最後の名人となった。本因坊の名跡を開放することで、碁を実力主義へと解放した。
世襲制ならご自身の立場は盤石なところ、勇気ある判断をなさったと思います!!
よくわかりませんが、当時流行りの素晴らしい有名な囲碁棋士だったようです
- 横綱双葉山, 1912-1968
現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立した横綱。本名は龝吉 定次。
横綱には昭和13(1938)年1月から昭和20(1945)年11月まで在位し、2023年現在でも破られていない69連勝記録を樹立した。太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た横綱。
この点だけは、佐々木先生の読みは未だあたっていませんな。
「又後から若くて強いのが出てくるに定まつてゐる。」
- 河合玉堂, 明治6(1873)年-昭和32(1957)年 (栖鳳氏より9歳下)
日本画壇の巨匠と言われる日本画家。
栖鳳氏が文化勲章を受章した3年後、つまり明治15(1940)年、文化勲章を受章。
栖鳳氏がChevalierを受賞した7年後、つまり昭和6(1931)年、栖鳳氏の7年後フランスのOrdre national de la Légion d’honneur (Chevalier)を受賞。なお、同年栖鳳氏はOfficierを受賞。
1931年にはイタリア皇帝からも「グランオフイシェー・ クーロンヌ勲章」を拝受。
この方の絵、たぶん拝見したことあります
- 野狐禅
禅に似て非なる邪禅のことを指す。野狐は有名であるとおり、人をだます低級な妖狐の1つ。野狐精、野狐身、また生禅とも。
「無門関」第2則の「百丈野狐」に出る語ですぞ。
- 文人書
文人の書とも言い、詩人や作家、芸術家や僧などの書のこと。文人の書は、よく言えば高い見識、鋭い感性、自由な表現力がある。
- 伊藤 深水, 1898-1972
大正昭和期の浮世絵師・日本画家・版画家。本名は伊藤一。美人画が有名で、また美人画を書くことを人々から求められた。
この方も絵を思い出したら書きます!
- 聖寿萬歳
聖寿は天子の年齢の美称のこと。萬歳は万歳で、一万年。そのため、天子の寿命が幾久しく、という、言祝ぎを指す。
行列の提灯が一つ捨てられている絵に、この言葉が書かれているということは?
- 頂門の一針
頂門とは頭のてっぺんのことで、漢方の鍼治療に用いるツボ・急所でもある。
つまり、頭の急所に1本の針を刺すことから、人の急所をついて強く戒めることを意味する。
また、ポイントを押さえた教訓のこと。
これはユーモアですかね?芥子坊主はあの頭頂以外はげちゃびんな髪型だとしたら
そこに蜂がとまっているわけで…
- ジョンソン博士, Samuel Johnson, 1709-1884
Dr Johnsonと呼ばれる、詩人、劇作家、エッセイスト、モラリスト、評論家、伝記作家、編集者、辞書編纂者。シェイクスピア研究等で有名。
創造よりも古い年代の方でした!
- ボズウエル, James Boswell,1740-1795
スコットランドのジョンソン博士の伝記作家、弁護士。イェール大学ボズウェルの日記、手紙、私文書が出版されたため、日記作家でもある。エディンバラ生まれ。
- 應擧呉春
「円山 応挙(1733-1795)と松村月渓(1752-1811)のこと。松村月渓は後に名を「呉春」と改めた。圓山四条(派)は、円山応挙が開いた円山派と呉春が興した四条派の総称。
呉春さんのお名前は大阪の池田にのお酒、「呉春」を先に覚えました
そのあたりにお住まいだったんですね
この方々の作品はいくらでもありますから、ゆっくりやっていきましょう。
感想
甲の政治家と乙の政治家の間に大した勝り劣りがない
この本が出版されたのは1941年の8月1日。太平洋戦争は1941年12月から始まっていましてな。
「教育が普及して一般の地盤が上がつてきた」ともありました
当時の実際のところが伝わってきますね
自分も専門をもつと勉強しなければ駄目だと激励を受ける
でました!謙虚!!佐々木さんも、サイン見るだけでも素晴らしい方に見えます
はー、自分も頑張ります
まさに切磋琢磨ですな。
ピンと来てゐるではないか
びっくり、何もピンときません
聖寿万歳が、天子(天皇)に使うことだとしたら、それが捨てられているなら、何かしら批判的な意図を含んでいるのでしょうか
藝術の精進で枯れ切つて、透き通つてるでせう
でました!持論では、この状態になる人を仙人だと勝手に言っています
結構、極めた方に共通した特徴だと思っています
はくたくさんも、体は大きいですが雰囲気は飛んでいきそうです
食事にデザートは欠かせませんからな。
つまり竹内栖鳳とは
- 存命中に成功した画家
- 日本画壇に西洋の新しい風をいれた
- 常に真剣に絵に取り組み、飽くことはなかった
参考文献
佐々木邦 著, 豊分居雑筆, 春陽堂, 1941